Column

2019/9/21

本当の名前

私には耐えられないという程ではないけれど、ずっと何かが引っかかっているような、
そんな感覚を持ってしまう悩みがあった。
悩みという程でもなく、それはもっと漠然とした感覚で、
悩みとして認識される程のことでもないけれど、でも何か自分の人生に漠然と影を落としているような、
そんな感覚をずっと持っていることだった。

それは自分の名前のことだった。
私が生まれた時、私の名前は父親がつけてくれて、
母からいつも聞かされていたのは、私の名前は、父から私への今までの最大のプレゼントだったということだった。
何度も聞かされているので、私はそうなのか・・・と思い、
自分を愛さなかった父からの、私への最大のプレゼントだったのだろう、
そんな風に思うようになっていた。

でも私は正直に言って、自分の名前を気に入っていなかった。
私の名前はちょっと女の子らしい感じのする名前で、
何だか自分の性質にとってしっくり来ない、自分らしくない感じがするというのがずっとあったのだった。
自分らしく感じないし、馴染めないと感じているけれど、
それはきっと私が男の子の魂だからで、女の子らしい感じがする名前だから
しっくり来ないと感じてしまうのだろう、そんな風に思っていた。

そして私はいつか自分の名前に馴染めるようになるのだろう、そんな風に思っていた。
それは、名前というのはもう、一度つけられたら基本的には変更不可能のものだから、
馴染めないと感じたところで仕方がない、馴染まなきゃ、
そういう風に思っていたのだった。
きっとこの感覚は、私が気にし過ぎているんだろう、本当は私にぴったりな名前なんだろうとも。


転機があったのは、つい最近のことだった。
私は山ほど本を買って、その本の中の一冊に書かれていたことがとても気になったのだ。
書いてある内容は、だいたいこんな感じだった。
名前というのは、子どもが生まれる前に母親にテレパシーで送っているもので、
それが父親や別な人が名前をつけてしまうと、合わない波動に苦労したり、
場合によっては、人生を大きく損ねてしまうこともある、だいたいそんな感じのことだった。

その時私はちょうど名前のことを考えていて、その言葉が非常に気になった。
私は、40年近くずっと同じ名前を使っているのに、未だに馴染めていないなぁ・・・
そんな感じのことを考えていて、
字は気に入っているけれど、やっぱり名前の響きが、
自分らしくないと感じてしまうんだな・・・
そんな感じのことを思っていたのだった。

それで私は、もしかして、と思うようになり、
母にその辺りのことを聞いてみたのだった。
そうしたら、母は私の生まれる前から、ずっとあずさという名前が浮かんでいて、
それをつけたいと思っていたのだという。
その名前について、私は何度か聞いたことはあったのだけど、
いつもその話のついでにいくつもの名前の候補も聞かされていたので、
何となく考えていた程度の感覚だと思っていたので、そんなに印象深く聞いたことはなかったのだけど、
実際に生まれる前に浮かんでいた名前は、あずさだけだったという。
生まれる前の私の性別も分からない時から、つけたいと感じていた名前はその一つだけだったという。

それは私にははっとするような話だった。
あずさという名前を意識してみて、それは私にとてもしっくり来ると感じたのだ。
それは何というか、自分の名前をあずさだと感じてみて、意識すると、
自分に力が戻ってくるような感じだったのだ。
自分の内側から、力が湧いてくるような感じ。
人からそう呼ばれると、“私の名前を呼んでもらえた!”
そんな喜びの感覚が、自分の中を駆け巡る感じだったのだ。

逆に今まで私のずっと使っていた名前で自分を意識すると、途端にへなへなと力が抜けるような感じで、
力の入らない、元気の出ない、“それは私じゃない”
そんな感覚を強く感じている自分に気が付いた。
今まで当たり前のようにその名前だったので、そんなことを考えたこともなかったのだ。
違う名前というのを意識してみて、初めて、
私が私の名前であることで、私の名前を呼ばれることで、
どんな感覚を感じているかということに気が付いたのだった。

音にも言葉にも、音の波動というものがあって、
音の一つ一つが違った性質のエネルギーを持っている。
名前というのは、ずっと自分と同一化して呼ばれ続けるものなので、
それが自分の本質、スピリットの性質に合っているということは、とても重要なことなのだ。

その名前というのは、スピリットが乗る人間としての自分、自分のイメージにとても重要で、
もし名前の波動があまりにその人のスピリットに合っていないと、
その名前はその人の本来の力、本来の性質というものを支えきれず、
その人は存分に自分の性質を、自分の本来の力を発揮することが難しくなってしまう。
それは言うなれば、名前というのはこの世界への、スピリットの出口のようなものなのだ。
名前がその人のスピリットを支えきれないと、その人のスピリットはこの世界への出口を失ってしまう、
それが私が今生での私の名前を通して知ったことだった。

それで私はずっと、自分の名前を使わずハンドルネームを使っていたのだなとも思った。
しっくり来る名前を付けてもらえず、人間としての名前とスピリットの性質が違う場合でも、
その度合いは人によって色々なのだと思う。
私の場合、その性質の合わなさがとても顕著で、
ずっと名前のことで苦しんでいたんだなぁ・・・と気が付いた。
それは意識しても仕方がないと思い、意識に上らせようともしなかった苦しみだった。
自分に合わないと感じるお仕着せのものを着ている感覚、自分が同一化することのできないものを纏っている感覚、
それはとても苦しいものだった。

自分がここにいても自分を見てもらえていないという感覚、
それは必ずしも名前のことだけではなかったかもしれないけれど、
“自分とは違う名前の感じがする名前”でずっと周りから認識され、呼ばれていたということは、
何だか私の姿、私の本来の姿を誰にも見てもらえなかったことと通じてもいて、
何だか象徴的だなと感じている。


私は、私らしくない名前で、私の家族が私を認識し、呼んでいることは、
私が家族から着せられていた役割なのだと気が付いた。
それは家族のことで背負ってしまっている名前だった。
私はいつも家族と一緒にいても、自分の子どもの頃から背負っていた私の役割としてのイメージで関わっていて、
家族と一緒にいても、本来の自分を出すことができないといつも感じていた。

結局名前のことは、妹に聞いてみれば分かるだろう、そういう風に感じ、
妹は深い直観的な性質で、妹に聞いてみれば、
私の家族が、私の役割としての私を望むか、それとも私の本質としての私との関わりを望むか、
今後の私の家族との関わり方の方向性が分かるだろう、そう感じたのだ。
妹はすぐにその方がしっくり来る!と言ってくれて、
むしろ、あれっこの名前じゃなかったっけ?って感じだとさえ言ってくれたのだった。
昔、父の会社の知り合いの家族で、家と同じ兄弟構成で、妹と弟の名前が家と同じで、
でも一番上の子だけあずさって名前だった家族がいたねって、私が忘れていたような話もしていて、
私は失っていた自分らしい名前、自分らしい性質への大きな喪失感も感じたのだった。


なぜ母がその名前をつけてくれなかったかというと、自信がなくて慎重になっていたかららしい。
とくに話に出るでもなく、父は姓名判断でこの姓には一番良いと言われた名前をつけてくれて、
もしかしたら私の名前は、父がつけれくれたのでさえもなかったのかもしれない。
もう私は自分の今まで使っていた名前には戻れないという感覚があって、
それは私にとって、私の力を大きく奪ってしまう名前だった。
もう今までの名前を名乗ることはできない、そう感じている。
法律上名前を変えようと思うかどうかはまだ分からなくて、
法律が絡まない限り、普段はもう新しい名前で通そうと思っているのだけど、
法律上は以前の名前が残っているというのが、若干もやもやした感覚はあったりする。
でも馴染めないながらも40年近くの間私の名前であってくれたことと、字は割と気に入っていること、
私の父親が私に対してしてくれた数少ないことへの感謝の気持ち、
そんな気持ちから、ちょっともやもやしていてもそのまま残すかもしれない。
でももし父が名前のことを姓名判断に完全に丸投げしていて、父がつけてさえもくれていなくて、
父が全く気にしないのだったら、もしかしたら変えるかもしれない(笑)

私は今、自分らしい名前で呼ばれることがとても嬉しい。
やっと本当の私に気付いてもらえたと感じるから。